2014年10月27日月曜日

詩と科学

きのうのあさは急に時間ができたので
本屋さんへ行ったらとても面白い本をみつけました。

高野文子さんの「ドミトリーともきんす」という
B5サイズのうすい本で
絵本と漫画の中間のような本でした。

ともきんす というのは
有名な物理学者ジョージガモフさんの書いた
「トムキンスさん」
という物理学の本(ファンタジー仕立てになっています)
から由来していて

本の中では様々な
科学者の本が紹介されています。

専門でない人でも
ぐっとくるような分が紹介されています。

いい文章がありすぎて
書ききれない。

気になって、この本のことを
ネットで検索してみたら
この本について書いているブログを
いくつか見つけました。

やっぱりみんな感動していて
そのブログを購読しようかなと
思って他の記事も見てみたのですが
言いたいだけの批判を
書いている記事があってやめました。

いいものを見ても悪い風にしか
言えないのは
残念だなと思います。


詩と科学

詩と科学は遠いようで近い。
近いようで遠い。

どうして遠いと思うのか。

科学はきびしい先生のようだ。
いいかげんな返事はできない。
こみいった実験をたんねんにやらねばならぬ。
むつかしい数学もしなければならぬ。

詩はやさしいおかあさんだ。
どんなかってなことをいっても、たいていは聞いてくださる。
詩の世界にはどんな美しい花でもある。
どんなにおいしいくだものでもある。

しかしなんだか近いようにも思われる。どうしてだろうか。

出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。

バラの花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、
花の形状をしらべようとする気持ちのあいだには、
大きなへだたりはない。

しかしばらの詩をつくるのと
顕微鏡をもちだすのとでは
もう方向がちがっている。

科学はどんどん進歩して、
たくさんの専門にわかれてしまった。

いろんな器械が
ごちゃごちゃにならんでいる実験室、
わけのわからぬ数式が
どこまでもつづく書物。

もうそこには
詩の影も形も見えない。
科学者とはつまり
詩をわすれた人である。
詩を失った人である。


そんなた一度失った詩には
もはや科学の世界には
もどってこないのだろうか。

詩というものは
気まぐれなものである。


ここにあるだろうとと思って
いっしょうけんめいにさがしても
詩が見つかるとは
かぎらないのである。

ごみごみとした実験室の片隅で、
科学者はときどきおもいがけない
詩を発見するのである。

しろうと目にはちっとも
おもしろくない数式の中に、
専門家は目に見える花よりも
すっとすっと美しい自然の姿を
ありありとみとめるのでる。

しかしすべての科学者が、
かくされた自然の詩に気がつくとはかぎらない。

科学の奥底にふたたび自然の美を見いだすことは、

むしろ少数のすぐれた学者にだけゆるされた特権であるかも知れない。

ただしひとりの人によって見つけられた詩は、
いくらでも多くの人にわけることができるのである。

いずれにしても、詩と科学はとは同じ場所から出発したばかりではなく、
行きつく先も同じなのではなかろうか。

そしてそれが遠くはなれているように思われるのは、
とちゅうの道筋だけに目をつけるからではなかろうか。

どちらの道でもずっと先の方までたどって行きさえすれば、
だんだんちかよってくるのではなかろうか。

そればかりではない。
二つの道は思いがけなく交差することさえあるのである。




成績もよくなく
計算力もないわたしが

今大学で
学びたいなと思うのは

これのせいなのでしょうか

だれかが見つけてくれた詩を
見ていけたらなと思いました。



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